AIには書けない人間ならではの文章を書くコツを芥川賞作家の九段理江さんに聞いてきた

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「AIには書けない、人間ならではの文章を書くコツ」を芥川賞作家に質問してきました。石川県立図書館で九段理江さんのトークイベント「石川県とわたし」が開催されたのです。

「AIには書けない、人間ならではの文章を書くコツ」を問う私の質問への九段理江さんの回答は、「不特定多数ではなくて誰かに向けて書くこと」でした。九段さんは、生成AIとの会話に最初こそ驚いたものの、すぐにコレジャナイ感を覚えてしまったそうです。自分なりに原因を分析してみた結果、「どれだけ会話を重ねても、AIとの関係性が深まらないから」だと気付いたとのこと。

「言葉によって分かりあおうとするのが人間を人間たらしめる営みである」というのが、九段理江という作家を貫くテーマなのだと感じる講演会でした。生成AIの言葉は、誰かと分かりあうために紡がれたものではないから、コレジャナイ感が漂うわけです。九段さんの作品というか、言葉は、誰かと分かりあうために紡がれているわけで、小説も、特定の誰かに向けて書いているそうです。芥川賞受賞作の『東京都同情塔』は、新潮社の担当編集者に向けて書いたとのこと。

「アナウンサーのもっともらしいコメントが薄っぺらく感じられがちなのはなぜか?」という私の疑問に対して、「不特定多数に向けた言葉だから」という鋭い回答をいただけたことになるわけです。大変興味深かったのが、九段理江さん自身が、まさにその「不特定多数に向けた言葉の難しさの罠」と格闘するドキュメンタリー的な講演会だったことでした。

じつは九段さんにとって、講演会形式、つまり一人しゃべりで聴衆と向き合うのは、今回が初めて。これまでは司会者などとの対談形式だったとのこと。このスタイルの講演会って、聴衆という、まさに不特定多数に向けた言葉を求められる場であるという事実に、九段さんはあの場に立ってみて初めて、じわじわと気づいて戸惑っていらっしゃるように見えました。開始15分くらいまでの間に、少なくとも2回腕時計を確認し、思っていたほど時間が経っていないことに驚いているように見えました。「私の知り合いっていますか?」と挙手をうながして、誰も手を挙げなかったり。あれは、誰と何を分かりあうために言葉を紡げば良いのか、よく分からなくなっている状態だったのだと思います。

「石川県とわたし」というテーマも、なかなかの罠でした。私も「金沢とわたし」というテーマで講演を頼まれたことがあって、猛烈に苦労したのを思い出しながら見ていました。この手の講演でなんとなく設定されやすいのですが、その土地についての思いって、別に分かりあうものではないというか、最初から「良いものですよね」という共通理解があって、それをさくっと再確認しあって、はたと困るのです。どう考えたって地元住民の方が詳しいわけで、よそ者として見たからこそ分かる良さみたいなことをちょいと語ったところで、分かりあうために言葉をたくさんつむぐほどのことでもなく…。

なんて感じで九段さんももがいているうちに、「芥川賞作家を見に来た人と純文学について分かりあう」という落としどころで手を打つことにした様子で、芥川賞を受賞するとはどういうことかを語りだして、もちろんそれはそれで楽しい講演となったのでした。“純文学”という概念は、言葉をたくさん紡がなければ、分かり合えないものです。私も九段さんのおかげで、純文学というものについての解像度が猛烈に高くなりました。

ただ、開始から1時間ほどを一人しゃべり講演会に使って、残り30分の質疑応答コーナーになってから、九段さんはあからさまに生き生きとしだしたのでした。私の質問はもちろん、ほかにも様々な質問に対して、それはもう熱く答えてくださいました。やっぱり、対話の人なのだなと思ったのでした。

今回、一人しゃべりの講演会というものを通して、九段さんは、これまで経験した言葉の伝わり方と全く違う何かを感じたと想像します。私も「金沢とわたし」というお題を与えられて講演会をやって上手くいかなくていろいろ考えさせられて、ギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』を読んだりしました。放送や通信で向き合う大量の人々とはまた違った、リアルな群衆の前で困り果てるという体験は、心理的に強烈な経験であることはもちろん、身体的にも強烈な経験になるのです。群衆が一つの巨大な生き物のように見えて圧をかけてくる感じは、極めて独特の感覚です。

このインプットを経た九段理江さんから、次にどんな小説が出力されてくるのか、めちゃくちゃ楽しみです。

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