確率論と決定論
「幼稚園出身の子は幼児期にちょっとしたお勉強もさせられるから、保育園出身の子に比べてお勉強ができる子が多い。」といった話を、担任のおばあちゃん先生がぽろっとしてしまったことがありました。保育園出身で小学2年生だった私は、プライドを傷つけられ猛烈に怒り、帰宅して母に熱く語った思い出があります。自他共に認める圧倒的な優等生だったので、我こそは反証なりという思いがあったのでしょう。
今にして思えば、先生が語っていたのは確率論に過ぎないので、決定論的に受け止めてしまった小2の私は、まだまだ未熟でした。ただ、こうした確率論と決定論の混同は、大人になっても付きまとう難しい問題です。そのあたりをていねいにていねいに解きほぐしていくのがキャスリン・ペイジ・ハーデン『遺伝と平等 人生の成り行きは変えられる』(新潮社)でした。
キャスリン・ペイジ・ハーデン 著,青木薫 訳
新潮社
【出版】2023.10
【頁数】387,10p
書籍情報は、国立国会図書館サーチのAPI(書影データ提供機関:出版情報登録センター)に由来します。
確率論と決定論の混同をはじめ、世界中の様々な調査や研究に、たくさんの勘違いや偏見が紛れ込んでいることを突き付けてくる本です。様々な調査や研究に携わっている人、その成果物を活用することが多い私のような人は、分野を問わず必読の本だと感じました。
“優生学”と見なされるリスク
遺伝と学歴の関連性についての研究は、少しでも足を踏み外すと、ホロコーストを生んだ“優生学”と見なされ、強烈な非難を浴びることになります。というか、足を踏み外さなくても非難されてしまうので、そのようなものはないとして振る舞うのが、常識的な研究者ということになります。
ところが、遺伝と学歴に関連性が皆無なわけもなく、そうした態度は様々な研究結果をゆがめてしまうことにつながります。また、そうした態度が欺瞞的であるとして極右の格好の餌食となってしまい、様々な研究のつまみ食いで、彼らにとって都合の良い理屈が一方的にでっち上げられる状況に陥ってしまっています。
こうした事態を憂えたテキサス大学の心理学教授キャスリン・ペイジ・ハーデンが意を決して、自分は左派の立場であると旗幟鮮明にしつつ、この本を書いたわけです。
研究に紛れ込んだ勘違いや偏見を解きほぐす
本は大きく2部に分かれていて、
第Ⅰ部 遺伝学をまじめに受け止める
第Ⅱ部 平等をまじめに受け止める
と構成されています。この「まじめに受け止める」が猛烈に重要で、いろいろな研究の中に、まじめに受け止められていなかった要素、つまり勘違いや偏見が紛れ込んでいたことを解き明かし、ていねいに整理してゆきます。
キャスリン・ペイジ・ハーデンさんは、料理を使った例えが多く、非常に難解な話も、大変分かりやすく解説してくれるのが気持ちいいです。例えば、遺伝学によく使われていたある研究手法は、料理の中に「パクチー」が含まれているかどうかが飲食店の成功と関連しているという仮説を立てて、「パクチー」と食べログの星の数の関連性を研究するようなものだったと喝破するわけです。こうして聞くと笑い話のようですが、似たような調査や研究が世にあふれていることは、そうした物に触れることが多い人なら思い当たるのではないでしょうか。
決定論の分かりやすさに惑わされがち
遺伝学については、私もそれなりに本を読んできましたが、だからこそ決定論的な考えにとらわれがちだったことに気づかされました。ABO式血液型や、家族性アルツハイマーなど、特定の遺伝子が特定の組み合わせだと必ず特定の形質が発現する、メンデルのエンドウ豆を使った実験のような決定論的事例が分かりやすすぎて何かと取り上げられることもあり、そればかりを思い浮かべてしまいがちだったのです。しかし、そうした事例はごくごく一部に過ぎないのです。
学歴なんて複雑なものと遺伝子との関連性となると、たくさんの様々な遺伝子の組み合わせが、それぞれ少しずつ影響を重ねて傾向として現れてくる、確率論的な話でしか語れないのです。ひとつひとつの要素がもたらす影響は、それこそ幼稚園出身か保育園出身かが学歴にもたらす影響程度のわずかなものに過ぎません。また、身長の高さなど、遺伝子との関連性が比較的単純そうな形質についても、とは言え確率論に過ぎず、正規分布の山がわずかにずれるだけであるということを、ていねいに示していきます。
それでも、そのような学歴を高める影響をもたらす遺伝子の組み合わせが特定されたのなら、そうした組み合わせばかりを選び取っててんこ盛りにする遺伝子操作ベイビーの可能性が思い浮かぶかもしれません。しかし、そうした遺伝子の組み合わせは統合失調症になる確率を高める傾向もあったりして、単純な話ではないことが示されます。このあたりの、高い知性要素てんこもりが諸刃の剣であることは、実際に東大など知性要素高め集団に所属したことがあると、実感しているのではないでしょうか。
わが子も耳が聞こえないで欲しい
そうした、何をもって“幸運”な遺伝子とするかについて、しみじみと考えさせられるのが、「第Ⅱ部 平等をまじめに受け止める」のパートです。平等について考えるにあたっては、多様性を守ることが社会全体としての強さであることを腹落ちしておかなければいけません。環境がめまぐるしく変化する中で、思ってもみない人が活躍して、社会全体を救うことがあるわけです。何が遺伝的に“幸運”であるかは、時と場合による、つまり周りの社会がその時代によって決めるものに過ぎないのです。
そのあたりを考えるためにうってつけの例として、耳が聞こえない“ろう”についての実例が示されていました。先天性のろうについては、身長などと比べて遺伝子と形質の関係ははるかに単純なのだそうです。そして、「ろうは“障害”ではなく、洗練された手話によって完全にコミュニケーションをとれる、自分たちの“文化的アイデンティティー”である」とみなしているろう者も少なくないそうです。そんなろう者のカップルが、わが子にもろう者であってほしいため、その確率を高めるために、五代続くろう家系の友人に精子提供してもらって、ねらい通りろうの子を2人授かって、国際的に話題になったそうです。様々な角度から考えさせられる事例です。
子どもを育てていると、遺伝子の力の決定論的な部分と確率論的な部分の両方を、日々強烈に実感させられます。トンビが鷹を産むこともあるし、蛙の子は蛙なこともあるし、蛙が突然もてはやされる世の中になることもあれば、蛙化現象も起きるのです。そうした感慨と、正しく向き合うためにも、つくづく読んで良かった本でした。
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