下山進『アルツハイマー征服』で学ぶ新薬開発の大変さ

「あなたの親が、40代の若さであなたのことを認識出来なくなったのは家族性アルツハイマー病のせいです。そして、あなたは2分の1の確率でその因子を受け継いでいます。受け継いでいた場合、親と同じように40歳を過ぎた頃、あなたも確実に発症します。遺伝子を調べれば分かります。…調べますか?」
自分ならどうするだろう…。

この決断を迫られている人達が実際にいます。8割の人が、自分の遺伝子の状態を知ることを拒否するそうです。自分は受け継いでいないはずだという2分の1の確率だけを希望に生きていく。なぜなら、アルツハイマー病の治療法は、まだ無いから…。

いや、そこに一筋の光が射しています。アルツハイマー病の治療薬レカネマブが開発され、日本でも去年9月に製造販売承認されて、12月に保険適用が開始されたからです。

アルツハイマー病治療薬の開発とアメリカFDAでの承認に向けての道のりを描いた下山進 『アルツハイマー征服』が上梓されたのが2021年1月で、FDAで承認されるかどうか関係者が息をのんで待っているというタイミングでした。発売後すぐに読んでいたので、本に登場する青森の家族性アルツハイマーの一族にすっかり感情移入してしまって、FDAの判断をドキドキしながら待っていました。

『 アルツハイマー征服』
下山進

【出版】 2021【頁数】 330
50パーセントの確率で遺伝し、その遺伝子変異を受け継げば、100パーセント発症する。しかもその発症は若年。アルツハイマー病の解明は、この家族性アルツハイマー病の家系の人々の苦しみの上に築かれた。遺伝子の特定からトランスジェニック・マウスの開発。ワクチン療法から抗体薬へ―。名声に囚われた科学者の捏造事件。治験に失敗した巨大製薬会社の破綻。治療薬開発に参加した女性研究者の発症とその苦悩。そして家族性アルツハイマー病を患った母の人生を語った女性の勇気。幾多のドラマで綴る、治療法解明までの人類の長い道。
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レカネマブは、高額過ぎるということでも話題になりがちです。しかし、この本を読むと、新薬開発に莫大な費用がかかる理由が痛いほど分かるようになり、何とも悩ましい問題だなと考え込んでしまいます。

FDA(米国食品医薬品局)での承認に向けての描写も大変ていねいで、“コードブレイク”という言葉にドキドキするようになること請け合いです。新薬の効果を確かめる時には、本物の薬と、偽物の薬とを大量の被験者に投与して比較するわけですが、誰に本物の薬が投与されたかは医師にも分からない状態にして試験が行われます。コンピューターに封印されていた、誰に本物の薬が投与されていたかというデータが明らかにされるのが、“コードブレイク”なのです。数年がかりの臨床試験の結果が明らかになる瞬間なワケで、その瞬間の描写には、こちらも手に汗握ってしまいます。

ただ、アルツハイマー病の難しいところは、認知症の症状の進行が抑えられた、回復した、といったことを判定する基準も一筋縄ではいかないことです。そうした基準作りの第一人者である医師の長谷川和夫さんもこの本に登場しています。長谷川さんの描写を読んで思い出したのが、2020年はじめに放送されたNHKスペシャル『認知症の第一人者が認知症になった』でした。このドキュメンタリーの主人公こそが、その長谷川和夫さんだったのです。

このNスペで私が涙してしまったのは、長谷川さんが妻にピアノの演奏をねだり、妻の弾く“悲愴”をじっと幸せそうに聴いている場面でした。長年連れ添った二人が、お互いを慈しみ合っている様子に、なんだか妙に泣けてしまいました。そして、この本でも、そんな風に連れ添った夫婦の物語が何組分も綴られます。新薬開発というのは、長い長い、それこそ一生をかけたプロジェクトで、新薬開発を描くということは、ある人物の人生を描くということになるからです。

ただし、ひとりの研究者が人生をかけた研究、それを支える家族の思いも注ぎ込まれた研究でも、コードブレイクの結果によっては、容赦なく否定されます。たとえ否定されずとも、文句なしに肯定してくれる結果なんてなかなか出ないものです。では、新薬がもたらすメリットとデメリットの天秤の傾きを、政府機関はどう判断するのか?「これは効く薬だ!承認!」なんて単純な話ではまったくないとよく分かります。

レカネマブが日本で製造販売承認されるタイミングで文庫版が出ていて、そこには書き下ろし新章が追加されているようです。まだ読んでいないので、そのうち読みたいと思います。

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